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父方の実家とトンゾーの実家の戦争の話

2011年8月、3年前に、SNSの日記に書いたものを思い出したので、少々加筆して再掲。

8月の、ちょうど15日だったかな。初めてトンゾーと父の実家に訪れ、図らずも父方の親戚にトンゾーをお披露目することになりました。
父は7人兄弟の末っ子で、2人の伯父はすでに亡くなり、1人の伯父は施設にいます。
今回集まったのは両親&私&トンゾー、父の姉3人と、亡き兄2人のそれぞれの嫁(義理の伯母)たちと、私のイトコ夫婦。

まあ、はつらつ世代の女が集まって、にぎやかなこと…誰も黙ってない(笑)
あとで母に「さすがにお母さんも(小姑だらけの)あの中では無口だね?」といったら「きょうはノドがいたいから黙ってたの、いつもだったら黙ってないよ」だそーで、そりゃ失礼をば。

長姉の「椿」伯母はそのとき78歳。なので今年は81歳か?
トンゾーと会って、「そのうちミャンマーいきたいねえ」なんて話していたよ。元気だねえ…
そして次のC伯母はおそらくその5つ下?なんとタイ・カンボジアと、ミャンマーにもいったことがあるらしい!
そして父のすぐ上、といっても4つ違いのT伯母は、いわきに嫁いだ娘家族が家に来ており、4人の小さいマゴにてんてこ舞いとのこと。

そのメンバーで、あれこれ、昼食をいただきつつむかし話などしました。
何しろ、親戚同士でよく集まっていた頃は私はまだ幼かったので、イトコとTVゲームやら鬼ごっこなんかをするばかり。
こうして大人として四方山話をするのは実は初めてで。

さて、長姉の椿伯母が14歳の時に父が生まれ、父は母親の代わりに姉に面倒を見てもらって育ててもらったようなもの。
そんな椿伯母は、お嫁に行くまでにこの家にあった色々なことを知っているのです…

終戦時12歳だった椿伯母が、
「忘れもしない19○○年11月27日」(何年だったか、その話を聞いたワタシが忘れてしまった。確か44年か。)
といって、当時の話をはじめました。

今建っている実家の家屋、これは昔はもっと、1,2軒分くらい前の方の場所に建っていたらしい。戦時中などはこの場所は、玉ねぎか何かの畑だったそうな。
その、忘れもしない11月27日、この畑に爆弾が落ちてきたんだそうだ。
「ちょうどこの位置と、あっちの、いまK子さんが座っている所。」
飛行機は右翼左翼側からそれぞれ1発ずつ落とすので、いちどに2つ爆弾を落としていくわけだが…

「私はかあちゃん(祖母)と、(掘立小屋か何かで)配給の真っ黒な米を臼でついてたわけ。で、空襲警報がヴーーーンとなって、そのうちまたヴーンンとなって。。」
ら、そのうちドーン!!!と爆弾が落ち、そのあとは訳が分からなくなったらしい。
飛行機が近づいた時伯母は危険を察したか「かあちゃん!」と祖母をとっさにひっぱり、二人して臼のそばにしゃがんで頭を抱えていたらしい。
みると、物置の扉がぱっくり縦に割れていたとか。
そして、家の中には畑の土が入り込んだらしい。

爆弾が落ちて畑にあいた穴は、土が柔らかいせいで巨大で、近所の人も見に来たくらい。その後もしばらく残っていて、雨が降れば池になったし、あれこれモノを投げ入れたりしてもちっとも埋まらないほどだったそう。

ちょうど爆弾が落ちたころ、赤ん坊だったT伯母は何も分からず、家の中の爆弾から一番近い部屋で寝ていて、5歳だったC伯母はかわいそうにたまたま一人きりでいて、あとでとうちゃん(祖父)と兄(伯父)と、押入れの下に入りこんでしばらくじっとしていたとか。

椿伯母いわく、「普段は気の強いこの人(C伯母)は、相当怖かったと見えてその日の晩御飯食べなかったもんねえ。」
C伯母は、たまたま一人でいて怖くて、今でもTVなどで、戦時中の沖縄で小さい女の子がガクガク震えているような場面を見ると、当時の自分を思い出して涙が出て止まらないのだと言った。

で、一家は疎開することにしたんだそうだが…
赤ん坊だったT伯母は連れていけないからと、なんと椿伯母(当時12歳)が子守として残されたんだとか~ 長女はつらいよ。

その他にも、近所の大人たちが潮干狩り(今はレジャーだが当時は食料調達の目的で)に行くというのでついていった時の話。
浜を歩いていたら途中、腕時計をはめた腕のちぎれたのが転がってて、先の東京大空襲のが流されてきたのか?と、それを覗き込みながら「アレ?これ米兵のかなァ?」などと思いつつそのまま通り過ぎ、そのへんで貝を掘ってたとか。

あとは妹か誰かと歩いていたら警報が鳴ったので駅かどこかのベンチの下に潜り込んだりだとか、機銃掃射を受けたりだとか、そんな話を次々にしてくれました。

そのうち、父が「爆弾ってさ、落ちると縦に破裂するんだよな。その破片が厚さ3ミリぐらいでこれくらいの大きさで、」といって割りばしの袋を縦に少し折って、幅2,3センチ、長さ10センチくらいの大きさにし、
「これがこう、飛んでくるんだよな」と、破片が小刀のように四方八方に飛び散って人に刺さる様を説明。子供の時分はよく破片を見かけたというのだ。と椿伯母が、
「でもアンタはソレの錆びたのしか知らないじゃないか、私はピカピカのを見てるんだよ(苦笑)」

ちょうど団塊世代の父だけは、兄弟の中でただ一人「戦争をしらない子供」なのである。
それでも、当時はそういう破片がいくつもかやぶき屋根にささっていて…おっとり育ちのかあちゃん(祖母)でも、梯子で上ってってそれらを取っていった、とかいう話をしていた。


そしたらトンゾーも、ラペイェザイン(喫茶店)を経営していたおばあさんの話をしだした。

おばあさんは自分の子供と、なくなった兄妹のから引き取った子供たちを育て上げながら喫茶店を切り盛りしていたというので、おそらく肝っ玉母さんだったろうな。
おばあさんは戦争当時、商売柄当然のように日本兵とも交流があったので、トンゾーはその頃の話を聞かされていたそうで。
日本兵はそこらの子供に日本語を教えていて、まだその日本語を覚えている人がいたりとか。
また敗戦後、日本兵より、日本軍が満州から連れてきた中国人の方がタチが悪かったりとか。
米兵や中国人から逃れてきた日本兵をかくまい、僧侶の格好をさせて逃がしたというビルマの竪琴さながらの話もしたのでした。

*****

でも、さすがにこの場では話しづらかったらしい。
私もこのあと1,2年位して、トンゾーから思い出したように聞かされた話。

町で最も豊かなうちの一つの主がいささかケチで、日本兵から家畜を徴収されたのを拒んだ翌日だったかに、変死していたとか。
トンゾーのおじいさん(確か)が日本兵に強制連行され、移送中の列車の中から頃合いを見計らって決死の覚悟で飛び降り、命からがら逃げ帰ってきたと。もちろん途中で逃げ残って死んだ人も何人もいたし、おじいさんは飛び降りるときに足の甲に穴があくような怪我をし、死ぬまでその傷跡が残っていたとか。

そんな話。
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ナンプラーとココ缶と適量

初めてタイのレッドカレーを作ってみた。
すすんでそうしたのではなく、アジア雑貨フェアでレトルトカレーだと思ってよく見ずに買ったら、ただのペーストだったので、調理が必要だったわけ。
袋の裏に書いてあった材料もだいたいすぐ揃えられるものだったし(ただし、この時以外は使わなさそうなスパイスは無視した)、作り方は日本のカレーと同じ。

でもこの「すぐ揃えられるもの」という認識のお陰で、作るときに変な手間がかかってしまった。

揃えるべき材料は、無視したスパイス以外には、鶏もも肉、ナス、たけのこ水煮の千切り、ナンプラー、ココナッツミルク。
さっそくペーストと肉、野菜を炒めて、さあナンプラーを出そうと戸棚を開けたら、いつも一番手前にあるのに、そこにない。
そういえばこの間トンゾーが、「ナンプラーが切れてたから醤油と干しエビを使ったよ」と野菜炒めを作っていたなあ。
でも奥の方にそれらしい瓶がある。なんだトンゾー、これには気づかなかったのか。と思って手を伸ばしたら、ナンプラーではない別の味付けのソースではないの。

…ナンプラーが、ない?味付けに肝心なナンプラーが、切れてる???

もう野菜も肉も炒めてしまった。
代わりに醤油と干しエビでも使おうか。いや、この間の野菜炒めは悪いけどマズかった。

しょうがない、ちょっとそこまでナンプラーを買いに行くか、とフラーっと外に出た。
まず近所のコンビニに行ったが、なかった。まあね、ないと思ったさ。と、近所のスーパーに行ったがそこにもない。
ここは割と色々なものが揃っていると思っていただけに、これはちょっと意外だった。
しかも店長らしきオジサンに念のため尋ねたら、「ナンプラー……なんぷらー? ナンプラー、って、何ですか?」と聞き返される始末。

これで帰ろうかとも思ったが、確実にあると思われる駅前のスーパーまで行って、ようやくナンプラーを買うことができた。
普段は小さい瓶が1種類しか置かれていないのに、別メーカーのものが目玉コーナーで安く売られていたのはラッキー。
レッドカレーは無事完成した。

アジア料理には欠かせないナンプラー。
我が家にも、醤油と同じくらい使うほどではないがミャンマー料理を作るときは必ず使うので、確認しなくてもひと瓶はストックがあるものと思い込んでいたし、それに、アジア雑貨屋に行けばズラリと並んだ1リットルパックが自然と目に入る。
そんなわけなので、日本のスーパーではオイスターソースよりも影が薄いことに驚いてしまった。
でも確かに、ナンプラーなんて日本の一般家庭では何に使うことやら。私なんか空芯菜炒めとガパオしか思いつかないぞ。
加えていえば、先に何の気なしに「ココナツミルクを買っといた」なんて書いたけれども、これだってナンプラー以上に、日本の売り場にはないものだろうな。
こんなところで認識のズレを認識してしまうとは。

ところで認識のズレといえば、カレーペーストの裏に書いてあった材料。量の表示が面白かった。

 鶏もも肉(適量)、ナス(適量)、たけのこ水煮の千切り(適量)、ココナツミルク(400ml)

「(適量)」ってなんだー!

だから適量はどれくらいなんだー!

と、多くの日本人は突っ込むのではないだろうか。
「シュフ料理はテキトウを持って旨とす」が信条の私でさえのけぞった。

日本でも料理の材料の分量をきちんと単位をつけて表示するようになったのは、岸朝子さんが始めてからのようなのだが、他の国ではどうか? 
鷹揚なアジアンスタイルでは、作る人が「これくらいがおいしいのよねー!」といいながら、そのひとの「適量」に任せているのかもしれない。

で、一つ具体的な数字があるのがココナツミルクの400mlだけど、これ、よく見る大きさの缶一つ分の量なのだ。
そして、作ってみたカレーは、ややココナツが多いような気がした。
クックパッドに載っていたレシピには、300mlとも書いてあったし、もっと少なくてもよかったんじゃ…。

………。

まさか、100ml余らせて捨てたり他に使ったりなんていう面倒な事はせず、「1缶そのまま入れちゃえばOK☆」なんていう考え方からこの分量表示になったのでは?などと思ってしまった。

ミャンマーのシャンプー「タヨウ・キンプン」

ついに、念願のミャンマーのシャンプー…の元を入手しました!
スーパーやドラッグストアで売っているものではありません…その名は「タヨウ・キンプン」、木の皮と身を乾燥させた、100%天然素材のシャンプーです!

この写真、
201309-1.jpg
木の皮を乾燥させて叩いて延ばしたものが、「タヨウー」。
黒い木の実を乾燥させたものが、「キンプンディー」といい、これにはリンス効果があるそうです。

では、どうやってシャンプーにしていくかご紹介します。
1.タヨウーを水につける。半日くらいで充分。
201309-2.jpg

2.すると、柔らかくなってぬめりがでるので、もみ込みます。
201309-3.jpg

3.さらにもみ込みます。どんどんぬめりが出てきます。ぐにゅぐにゅ。
201309-4.jpg
こんなものでOK。

お次はキンプンディー、色々やり方があるようですが、
1.煮出します。
201309-5.jpg

2.煮出すと泡が出てくるそうなのですが、さらに煮出します。
201309-6.jpg

3.どの程度似るのかわからなかったのですが、私は10~15分、2,3回沸騰させては冷ますを繰り返しました。
水に色がつけばOKという話も聞きました。
201309-7.jpg

4.で、こんな具合。しばらく冷まします。
201309-8.jpg

5.そして、先ほどもみ込んだタヨウーと混ぜます。
201309-9.jpg
そして程よく冷めたら、できあがり。

ここでもうひと手間!
木くずなどのゴミがでるので、不織布かガーゼで漉しましょう。さもないと、洗った後の頭がクズだらけになります(笑)
私は三角コーナー用の不織布ゴミ袋を使いました。ちょうどいい大きさだったので。
肝心のヌメリ成分も漉してしまいそうですが、そこは上手に…。


使い方としては、頭を濡らして、このシャンプーをつけて、よーく頭皮マッサージして、毛先にもしみ込ませるというやり方でよいと思います。
(実際、美容院にこのシャンプー液を持ちこんでそのようにやってもらいました)

使い心地は、シンプルなエキスをつけているよう。(というか実際そうなのですが)
泡立たないので洗浄力が気になりますが、そこは頭皮マッサージを念入りにするとよいと思います。
仕上がりはなかなか!するする、さらさらになります。

ぜひお試しあれ!

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「スーチーさんを囲む会」のスピーチ全訳

アウンサンスーチーさんの、4月13日の東京での演説の日本語訳が
アジアプレスから発表されました。

<スーチー氏来日>東京での演説全文を読む1
2013年4月16日(火)12:00

<スーチー氏来日>東京での演説全文を読む2
2013年4月16日(火)14:46

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「スーチーさんを囲む会」に行ってきました

来るぞ来るぞと言われていたアウンサンスーチーさん、ほんとに、ついに来日しました。
来日が決まってからというもの、日が迫るごとに周囲で高まる興奮!

長年、日本で苦労して暮らしてきたミャンマー人にとっては、その苦労が報われるような時だと思いました。
なんといっても、一般市民にとってスーチーさんは平和と発展の象徴だと思うのです。

この「スーチーさんを囲む会(通称か?)」、はじめは、チラシもビルマ語のものしかないし、席に限りがあると言うので日本人は遠慮したほうがいいかな~、いいのかな~…などと参加を迷っていたのですが、やはり行きたい気持ちが勝りました。
当日の今日、友人と待ち合わせて12時に会場のビル前へ。すでにたくさんの人が待っていました。
最前列近くにいた人は朝8時半に来ていたとか。
中には、成田空港に出迎えに行ったグループもあったとか。実際は、みんなの後ろを抜けるようにして通ったので、はっきりお顔が見えなかったとかいう話も聞きましたが…

会場ビルの前から中のロビーで待っている間に、「マスコミからの取材中にスーチーさんがめまいを起こした」とかいうアナウンスも聞こえ。本当?大丈夫かしら…

さて、会自体は4時から5時までですが、入場受付は2時から3時半まで、先着順。
席がなくなったら入れないとのこと。実際、せっかく来たのに入れなかった人もいたそうです。うわー、シビア…。

シビアといえば、入場する時チケットを見せて左胸にシールを張られたのですが、会場に入るときに私だけ入口のところでワワワワッと止められ。
それも、シールの上にジャケットを羽織っていたので一目でシールを確認できなかったからで、襟をまくったらすぐに入れてくれましたが、こんなとこも普通のコンサートとは違うもんだと妙なところで納得。

受付は1時間ほど遅れて開始。順にチケットを購入、会場入りして、無事友人らと着席できました。

城内には、既に来ていた大勢のマスコミはもとより、SPの人もそこかしこにいて、SPの人たちはスピーチ中もスーチーさんの周囲におりました。

みな、まさに固唾をのんでスーチーさんの来るのを待ちます。
その間、ミャンマー語でアナウンスがあったのですが「注意事項なら日本語でも話した方がいいんじゃないの?」と友人に言うと「べつに、『トイレはきれいに』とか『ゴミは持ち帰りましょう』なんて、言う必要ないでしょう」確かに…いやいや、トイレとゴミ以外にも言ってたろうとは思うけど。


そして、いよいよ4時、スーチーさん登場!
それとともにスタンディングオベーション!
はげしいフラッシュとシャッター音に、「主催者はたしかフラッシュ禁止って言ってたんだけどなぁ…」とぼんやり思いつつ…


通訳はつきませんでした。基本的にミャンマー人のための会なんだから当然だな、と。
開始前に、通訳の準備をしていなくて困っているマスコミの人たちもがちらほら。「あそこらへんに3人ほど日本語のできる人がいる」、とかなんとか言う声も。
私は幸い、日本語ができる友人がときどき通訳してくれたので、多少内容を理解することができました。


以下、そのかいつまんだ同時通訳に私の解釈を加えたものをあげていきます。
もちろん話されたことの全てを書けてはおらず、ニュアンスも、言葉もところどころ違っていると思います。(もしかしたら内容も!?)
ですので「だいたいこんなテーマで話していたんだなー」という程度であることをご承知おきください。
そのうち全訳が各所で発表されるでしょう。


*************


・日本に住んでいる人たちは、日本への恩を忘れてはいけない。
・「団結力がない」「団結しないといけない」とは何処へ行っても言わないといけないんですよね(苦笑)
・ミャンマー人には人を嫉妬というか、人を羨む気持ちがある。人を妬まず、自分の過ちを認めるようにしないと自分を正せません。



15分ほどのスピーチのあと、質問コーナーへ。
事前に配布された用紙にスーチーさんへの質問を書いて集めたものを、スーチーさんが箱の中からとっていって答えていきます。

このコーナーの趣旨については、
・海外で暮らすミャンマー人の苦労を知りたい
・質問ができる人間になってほしい、そういう能力を身につけてほしい。そのための修練でもある

とのこと。

そうして質問箱が運ばれてきますと、ジャンルごとに箱が分かれていたのか
・経済的な質問は少ないですね!(ここで笑いが起こる)
とのこと。

以下、Qは質問。
なお、質問と回答を全て対応させていません。つまり、Qのあとの発言がそのQの回答とは限りません。
質問だけのもの、解答だけのものも混ぜて、なるべく聞いた順に並べ書きしていきます。

Q憲法をつくるにはどうすれば?
Q声を聞きたくて、会いたくて来ました。

・これが経済の質問ですか!?(笑)(笑いが起こる。どうやら経済の箱の中に入っていた質問らしい)
・愛情(親愛の情のことだろう)のことはどのジャンルの箱に入れても読まれるから大丈夫ですよ。
Q私は東京の歯科大で勉強しているが(略)ミャンマーでもそういう研究設備を作ればいいと思います。
・私も病院などを作るため寄付を集めているところです。それもいいことだけど、まだ教育が遅れている、50年くらい。
・今NLDでがこう作っているが2人優秀な人はいるが、5人はだめ。理由は、生活が大変だから。
・仕事についている人は自分に何ができるか、責任を持ってほしい。
・自分の後継者を自分で選ぶのはおかしい。国民が選べばいい。
・自分より優れた人がいると思えば、ずっと人が集まってくる。

Q(質問が英語で書かれている)
・ミャンマー人ならミャンマー語で書いて!(笑)
・みなさん、「給料」をミャンマー語で何と言いますか!
(「ラカ!」と聴衆から声が上がる)
・ミャンマー人はコミュニケーションの結束が弱い。アメリカにおいてもそう。ネットワーク、情報発信が弱い。自分にまず何ができるか考えてほしい。

次の質問を読み上げようとするが、、、
・字をきれいに書きましょう、質問の仕方もうまくない、勉強不足。教育レベルも落ちている。
Qビルマ・ミャンマーの読み方が分かれていることについては?
Q調査委員会(?)として出向いた時にデモされたらどう思いますか

・デモを受けたくない人は政治の世界に入ってこないで。
・経済制裁にも反対しない。ものごとにはタイミングがある。
・平和と経済は全く関係ないとは言えない。経済力なしに国の平和は維持できない。
・悪い方から見る必要はない、いい方を見て。
・民族がばらばらでは平和にならない。
・いいものは手に入れるのは難しい。

Q被災地には行きませんか。
・行きたいですが、時間が決まっているので行きません。
・外国に行くのは政治のためです、私は政治家なので。外国に行くのは交流の目的も含まれています。この場から(被災地を)応援します。
・外国へは1週間、10日以上いけません。国内の仕事がたまるので、それ以上いかないと決めています。
・日本はマナーとルールを守るので、尊敬します。他の国では暴動など起こるのに。
・ゴミ箱はいっぱいあるのにそれらをそれてゴミを捨てたりする。幼いころからごみのポイ捨てに罰金を課せばポイ捨てもしなくなる。

Q(また英語で書かれた質問)
お叱り…いやいや…がなくすんなり質問が読み上げられたなと思ったら、どうやら外国人からの質問。それに対して美しい英語で回答するスーチーさん。私も日本語で書いて入れればよかったかな…でもそのままスルーかな…

・若者たちに職がないのは国にとって危険
・飲み水が必要、連絡を取って一緒に連携して行動しましょう
・雨期は冠水して動けなくなるのが問題
・教育と健康問題の解決が必要

Q88年に警察隊だった。帰国する予定だが退職金はもらえるだろうか
・現役の人でも満足に(給与を)もらえていないので退職金がもらえるかどうかは現実的に考える必要がある。
・今一番いい教育を受けられた人は55歳、定年を迎えようとしている。これから何ができるか考える必要がある。そうしてこそ国の発展が望めます。

Q警察の制服を変えてほしい
・征服より中身を変えたほうがいいのでは?
Q海外のNLDを正式なメンバーとして受け入れますか
・ミャンマー国籍ならいいけど多国籍になった人のケースはあらためて考えないといけない。
・今必要なのは教育、教養。
・なぜ教員は女性ばかりで男性はやろうとしないのか。
・教師のレベルを上げることと、教育に必要なものをサポートすることが大事。



******************


会は予定の5時を15分ほど遅れて終了。スタンディングオベーションと拍手に送られて会場を後にされました。

スーチーさんは、どんな質問にも明快に答え、まさに当意即妙、ユーモアたっぷりで笑いと拍手が入り混じり。
こりゃー人気もあるわな!と大いに納得するとともに、目から鼻へ抜けるその頭の良さにも、改めて感じ入ったのでした。


さて、日本訪問は始まったばかり。
どうかお体にお気をつけて!
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